54 由緒ばなし

○ 皇族を「竹の園生」と申し上げるわけ
 昔々、支那(前漢)の孝文帝の子供孝王という人が、お庭に竹を植えて修竹苑と名付けられた故事から出た事の葉である。

○ 鬼門
 昔々、支那の東方に慶朔山という山があって、大きな桃の木の下に、鬼が住んでおって、山の東北に鬼が出入りする門があったということから、東北に当る処を忌み、その方角に門や玄関や井戸や便所のあることを嫌います。江戸城の鬼門には上野寛永寺、京都御所の鬼門には比叡山延暦寺があるように、この方位には神仏を祈って鬼門除けとした。

○ 藪医者ということ
 昔、丹波に薮というえらいお医者さんが居った。その門人どもが、自分は上手でもないのに、師匠の薮の名を持ち出したので、かえって下手な医者の代名になったと申します。また薮は風位でもざわざわと騒ぐからだとも言い、一説には、薬種を買い集められないため、薮からいろいろの草根木皮をとって調製するからだとも申します。
 また、ヤブはヤボに通じ、薮にもなれない者を筍、または土手医者など…。

○ 出雲の神は縁結びの神
 出雲大社には大国主命を主神とし、タカミムスビの神、カンミムスビの神の二柱の神を客座に合せ祀ってありますので、その中の二柱の神にある「むすびのかみ」という御名に縁結び給うということで…。

○ 新年に屠蘇を祝う
 昔、支那に屠蘇庵という僧坊の主が、毎年大晦日に一種の薬を一袋ずつ家々に配った。そのことから新年に「とそ散」を服用するということが広まったとのことです。
 とそ散は白求桔梗椒桂心大黄など、種々の薬味を調合、之を服用すれば老人は若返り、病ある者は健やかになり、一人が服すれば一家全体が無病になり、一家が服すれば一村全体が恙ないとか唱えられ、日本では嵯峨天皇の頃から新年の儀式の中に入れられ、大晦日に、とそ散の袋を井戸に吊し、水に浸しておき、元旦の朝これを引上げて、温かい酒を注いで飲んだもの。それが後に味醂の中や白酒の中に入れるようになった。

○ 相撲の四十八手
 昔、徳川の末期に反り十二手、捻り十二手、投げ十二手、掛け十二手を配して四十八手としたが、のち裏四十八手とか、手捌手砕などを合せて、今日では百四十二手となっている。

○ 下馬評について
 門外漢の当て推量という意味で、「下馬先の評定」をつめていった言葉で、下馬先とはお城の大手(正門)、裏門は搦手といい、前の諸人が下馬下乗する場所のことで、お供の連中がそこで主人を待っている間に、城内の噂をすることを「下馬先」の評定、即ち「下馬評」という。

○ 注連縄(七五三なわ)
 天照大神を手力男命が天の岩戸から出しまいらせた時、岩戸の口に尻久米縄を張って、「これより内へは再び入り給うな」といって、祝い上げ奉ったという故事によって、注連縄を神前に張る儀式が伝わり、後にはそこより不浄の者の入るを防ぐ意味となった。

○ 晦日(年越)そば・引越運そば
 大晦日、年越そばを祝うのは、そばのように細く長く身上が延びる(殖える)ことをそばにあやかるようにするので、また運そばとは幸運がそばにあるという意でもある。
 引越そばは転宅の際、おそばに長く御交際願いますの意。

○ 上戸・下戸
 昔、支那民間の婚礼式には民戸の上流の者、即ち上戸は八(へい)と称して多量の酒を用いることが許されていたが、下戸にはほんの少々、ほとんど無に等しかったという。また秦の始皇帝が咸陽宮という大宮殿を築いた時、高閣の各階毎に門戸があり、冬は上になるほど寒く、門番になり手がなく、一策を案じて上の門戸になるほど酒を多く与え、寒さを凌がせた故事から、上戸・下戸ができた。

○ 小田原評定
 戦国時代のこと、北条氏政父子は小田原城にいましたが、秀吉が攻め寄せると聞き、戦うべきか和睦するか群臣を集めて評定したが、和戦両説いろいろあって容易に決せず、ぐずぐずしている間に小田原城は秀吉のために完全に包囲されてしまい、遂に城将の割腹、氏直の放逐、一門の流謫という悲惨な結果を見ましたので、以来相談ばかりして、衆議のまとまらぬことを小田原評定という。

○ 白羽の由来
 スサノオ命が出雲の簸の川上で大蛇を退治されたのは、櫛名田姫が大蛇の人身御供に召されていたのを、助けられたが、それを見込まれた少女の家の軒先に、いつとはなしに白羽の矢が立っていたと言い伝えられ、大勢の中から重要な地位に起用されることを、白羽の矢が立てられたなどと言っている。

○ 御中元
 昔、支那の暦で陰暦一月十五日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下元と唱えて、灯明を供えて「太乙(たいいつ)星」を祭りましたところが、中元の日はちょうど仏教の方では盂蘭盆会に当りますので、御歳暮と共に配物などをするようになった。

○ 閻魔さまと地蔵さま
 エンマは印度の言葉で「縛王」即ち罪人を縛る王ですから、地獄を司って死者の裁判官の役をした。
 地蔵さまは動かざること大地の如くであり、且、知恵思慮の深く秘蔵されているというところから地蔵といわれます。釈尊滅後五十六億七千万年後に第二の釈迦として弥勒菩薩が現われるまで、一切の衆生をお救い下さる仏さまである。

○ 正月の門松
 太古に神を祀るのに、二本の新しい常盤木を立てて、場所を清めるしるしとしていた事から、それと同じ筋合いで、松はめでたい木であるとされているので、新年を祝う意で、延久の頃から門前に一対の松を立てることが始まり、後に応永の頃になって竹を添えることになった。

○ 絵馬のこと
 昔、貴人を葬る時にはその従者や乗馬を共に葬る(なら)わしがあった。神社に馬を奉るのはこれから起ったので、近世でも将軍家や大名は神社へ馬を奉納し、それを「神馬」と呼んでいたが、神馬を献じかねる人々は、それを絵に描いて奉納し、それを絵馬と称した。また奉納者の名前は書かないのが常識であった。

弥次(やじ)の語源
 おやじ馬から出た語。老馬の役に立たないのを、「やじ馬」といい、やじ馬は常に若馬の尻について歩くので、尻馬といわれ、やじるの動詞が生れた。

○ 節分の豆
 第五九代宇多天皇の時、鞍馬山の鬼が都を荒すのを、毘沙門の御示現により、七人の博士が七七、四十九日の間、お祈りをして鬼の害を封じ、三石三升の炒豆で鬼の目を打ちつぶし、災厄をのがれたという故事に起因するもの。

○ 総領の甚六
 総領は家を(すべ)おさめる意。甚六は順祿。家督を継ぐべき長男なり長女なりは、たとえ馬鹿であっても決った順序により、家の祿を継ぐということ。世間一般に長男、長女はおおようで、時に愚なる者も多かった。

○ 除夜の鐘の百八
 仏教では人間の煩悩は百八あり、これを救うにまた仏、菩薩などの百八尊があり、百八の鐘がこれにちなんでいる。同時に次々と百八の煩悩を退散せしめ、心身共に清浄のうちに功徳をたたえることによる。

○ 離縁状を三くだり半ということ
 何某と何女と夫婦の契相結びおり候ところ、家風に合い難き廉有之(または病気、あるいは不都合)、合意の上、何女を離別致候事。
 むかしの去状はこんな風に書いたもの。これを三行半に書き終るというのが、離縁状「三くだり半」である。

○ 足袋の文数
 昔、和銅元年に我国最初にできた一文銭(和同開珎)を七枚は七文、九枚半は九文半とした。一文の直径は曲尺八分、鯨尺六分四厘というものから来た。

○ 酉の市の熊手
 毎年十一月の酉の日、(おおとり)神社の縁日であり、市日である。酉は取りに通じ、縁起よく、商人は商戦に勝つように祈願をこめて、熊手お多福面、入舟などを買って、熊手は沢山の福徳をかき集めるように。お多福面は「福が多い」ということ。入舟は宝の入舟という意味である。

○ 月下氷人
 昔、支那の冷孤策という人があり、夢に氷上に立っていると、氷の下に声があったので相語ったところ、それが若い美人で、たちまち意気投合して結婚したという夢物語が起源となった。それから媒酌人のことを氷人というようになった。

○ 月下老人
 また、支那に、月下老人というものがあり、深山の城に住み、月に向って名簿のような書を閲覧しながら、結婚させたい男女を思いつくと、袋の中から赤い縄を出して通力で、その二人の足を縛りつけると、たちまち二人は運命が決して、仇家異国の人といえども必ず夫婦になるという。これを「赤縄の縁」という。

○ 左官
 昔、禁中の御修理をするのに、無官の職人では出入りができないので、臨時に木工寮の佐官とする習わしであったが、その佐官を「左官」と書くようになったという。

○ 岡目八目
 脇目八目ともいうが、岡は地の小高いところ。岡から低いところを見渡すと風景がよくわかるように、囲碁も脇から見ると、その推移がよくわかる。対局者より八目ぐらい強い智恵が出るという意である。

○ 韋駄天走り
 八大将軍の一武装として金剛杖をもつ仏法守護の神であり、釈迦が涅槃に入られた時に、足の速い抄疾鬼という鬼がお釈迦さまの歯を一双盗んで逃げたので、韋駄天が跡を追いかけて取り戻し、唐の時代になって、南山道宣律師に授けたという足の速い鬼を追いかけて捕えたので、韋駄天はそれ以上に速いわけで、これから足の速いことを「韋駄天走り」というようになった。

○ かかしを「案山子」と書くこと
 支那の禅宗の僧侶がそう呼び始めたといいます。「主山は高く、案山は低し」などという語があって、案山は山中の低地を指すのですが、そういうところは必ず田畑として耕作された。しかも山中だけに鳥獣の害が多いので、大抵かかしが作られていた。ミノカサを着たその形が剽軽なので、俗人離れのした禅僧がそれを友だち扱いにして、「我が案山の子よ」とよんだ。
 かかしの語源は獣肉を焼いて串に刺して、田畑に立て、その臭気のために悪獣が近寄らず、田畑の害をまぬがれた。臭いをかがせるという意味から、かかしと称するようになった。

○ 正月の松竹梅
 松竹梅は、昔から「才寒の三友」といわれ、松は千年かわらぬ縁、竹は直にして節操の正しいもの、梅は百花に魁けて咲く、冬の寒い時節にも、この三者は負けない。百年変らぬ栄を得ようというもの。

○ 亭主の好きな赤烏帽子
 一家の主人たる者が好きなものなら、人が見て笑うような赤塗の烏帽子でも、その好むままにして置けということ。

○ 引導を渡す
 引導とは、人を仏道に帰依せしめることで、葬式のときの僧侶が、死者を極楽浄土に導くことは、死後の引導で初めは僧侶のみに行われたが、あとで一般に行われるようになった。単に引導といえば、死後の方を指すようになった。

○ 人の姓はどうしてできた
 姓はかばねであり、氏族の長に対して、天皇より賜わった名称であり、その発生には職業に由来するもの―連・宿称―。功績によって賜わったもの―藤原雀部(ささべ)―。皇胤血統によるもの―源氏・平家―があり、さらに氏族の内部が増加するに従って、あるいは姓に因み―藤原から藤岡・藤村の発した類―また地名から取った―初瀬・長瀬・中村の類―、苗字を称したものもあります。今日ではすべてこれらが姓として取り扱われた。なおまた、姓は斯くの如して由緒の正しいもので、徳川時代まで農工商のいわゆる平民階級にはなかった。それが明治に入って戸籍として登録する必要のため、明治三年に平民にも姓名を付することが許されたので、古い縁をたずねて由緒ある姓を用いたり、地名によって新しい名を工夫したり、自己の好みによって勝手につけたりして、今日にいたり、千差万別である。

○ 栄達を「登竜門」
 竜門は支那の黄河の上流にある山の名ですが、そのふもとを流れる時の黄河は最も急流で、大魚迫って集まるもの数千にも及ぶ。その水流を登りかねるという。もし鯉がそこを登れば化して竜となると言い伝えられるほどで、それを人の栄達の門口にたとえられた。

○ 松の内
 松の内とは、松飾りをしている間という意味で、一月一日から関東は七日まで、関西は十五日までである。

○ 八百長
 相撲会所(今は協会)のお出入であった八百屋の長さんと称する者、相撲年寄であった先々代の伊勢の海の碁の相手をして、自分の方がずっと上手であったにもかかわらず、御機嫌とりに、わざわざ勝ちをゆずっていたことが有名となり、わざと勝ちをゆずる相撲を八百長相撲といい、いかさまのことも言うようになった。

○ 陣笠ということ
 もともと陣笠は、陣中でかぶる笠のことで、特に足軽などはいわゆる雑兵にはうすい鉄で作った擂鉢笠を与えていただけで、ヨロイも着ず、大将の命令のまま働くだけで、陣笠といえば、足軽、雑兵のことになる。転じて勢力のない政治家が何の役にもつけず、幹部の言うままに盲従している事を陣笠と呼んでいる。

○ 神様の前に、なぜ鳥居を立てるか
 昔、天照大神が天の岩戸におかくれになった時、八百万の神々が八百万の智恵を出して、岩戸の前に丸木の柱を二本立て、その上に横木を渡して、これに常世の長鳴鶏を止まらせて、朗らかにあかつきの声をあげさせたのが、すなわち「鳥居」である。

○ 元の木阿弥
 筒井順慶の父、大和郡山の城主筒井順昭の病死後、喪を秘して見参者には容貌の似た木阿弥という僧をうすぐらい病床に置いて応対させ、三年の後始めて喪を発表したため、とにかく三年間城主を装っていた木阿弥が、元の木阿弥に返った故事から、この語が起った。

○ 明神さま
 「明」とは智恵がすぐれて、四方八方見通しが利くことをいい、「神」は威徳きわめて広大、神妙、不可思議の力あることを示す言葉を「明神」と呼ぶ。

○ よい役者を千両役者というのは
 昔、一座の主な役者で、技芸のすぐれた者には給金を一年間に千両与えていたことから起った言葉で、今でも人気俳優のことを千両役者という。

○ 福助とおかめ
 今から二百年前、八代将軍吉宗の頃に、摂津国西成郡阿部の里に、佐太郎という大頭で背低の不具者がおって、香具師に買われ江戸に出て見せ物となり、名を「不具助」をもじって「福助」と名のったという。それが大受けだったので、自分の姿をヤキモノに拵えて売り出したところ、それも大当り、さらに某旗本の家に雇われると、その家がまたまた福運つづきというありさま、いつのまにか「福の神」と崇められるようになった。
 おかめは福助よりさらに百年ぐらい前に、足利時代の末、畿内のある神社の巫女に下ぶくれの愛嬌あるお亀というのがおって、よく繁昌したので、諸人に愛されたという。

○ 七福神
 慈眼大師の七福説によりますと、七福神はそれぞれ左の如き徳をあらわしているのだそうです。即ち大黒天は裕福、恵比須は清廉、寿老人は長寿、福禄寿は人望、布袋は大量、毘沙門は威光、弁財天は愛敬を現わすもの。

○ 武芸十八般
 一、弓。二、剣。三、騎馬。四、薙刀。五、槍。六、水練。七、忍術。八、柔。九、鉄砲。十、蟇目。十一、火矢。十二、棒。十三、?(もじり)。十四、突棒(つくぼう)。十五、刺股。十六、十手。十七、烽火。以上を武芸十八般という。
 なお、これに加うるに流鏑馬、笠懸、犬追物、牛追物、水馬居合、鎖鎌騎射、騎馬筒、手裏剣の以上で二十八般ともいう。
 支那にても、十八種の武技あり。予(てや)、鎚、弓、(いしゆみ)(ておの)、鞭(しない)、簡(むち)、剣、剣鏈(けんくさり)、?(くまで)、斧、鉞(まさかり)、戈、牌(たて)、戟(ほこ)、鎗、棒、(なげほこ)がある。

○ お茶の効用
 昔、中国では一日にして七十毒に遇するも、茶を得てこれを消すといって、昔から珍重されたもので、我が国に渡来してからも、初めのうちは薬用の飲料となっていたが、最近ソ連の化学研究所では日本緑茶の中にホルモン剤をはるかに凌ぐ不老若返りの成分のあることを発見し、国営の茶所を作ったとのことで、正しく解毒、興奮、食欲増進の効力があった。

○ 金の切れ目が縁の切れ目
「貧乏が戸口から入ってくると、愛が窓からとんで行く」というヨーロッパのことわざがあるが、金のなくなった時がつながりの切れ目、金がなくなるとソッポを向かれて、相手にされなくなるのが世の常です。
 女が男と手を切ろうとするのも、金を思うようにもらえないため、嫌になるのが主な原因です。似たようなことわざに、
「愛想づかしは金からおきる」
「金のないのは首のないのに劣る」
「夫婦ゲンカもないから起る」

○ 悪銭身につかず
 不当な方法で得た金は、つまらぬ事に使って、やがては失なってしまうもの。正当な金は勤労によってのみ得られるため、一度得た金は大事にしますが、不当な方法で得た金は、大切にしないのが人情です。中国にて「何もしないで得たものは何にもならず出て行く」と言います。バクチで得た金も身につかないもので、ときには身を滅ぼすもとになります。似たことわざに、
「人垢は身につかぬ」
「盗人は盗みによっては金持になれない」
「不当に得られたものは不当についやされる」

○ 金は天下のまわりもの
 金は同じ所にばかり止っておらず、ぐるぐる廻っているものだから、現在は貧乏でもいつかは自分にもまわってきて、金持になることもあるはず。悲観したものでもないというのですが、似た言葉に、
「金は世界のまわりもの」
「宝は国の渡りもの」
 反対のことわざには「金は片釣」「金と子どもは片まわり」などがある。

○ 金とチリは積もるほど汚ない
 金持は財産ができるほどケチになるといいますが、これは貧乏人の立場から出たことわざ。金の外に何も持ってない人に金を惜しみなく出せというのは、言う方が無理というものです。似たことわざに、
「金持と灰皿はたまるほどきたない」

○ 地獄の沙汰も金次第
 死んで地獄に追いやられたものは、そこで裁判を受けるが、そのとき金をつかませると、有利な判決をしてもらえるといわれます。それくらい世の中はすべて金の力で支配されています。
 人間が金のために生きているものだという事は、金に関することわざが多いことでもわかるはず。
「阿弥陀の光も金次第」「現世も後世も金次第」「仏の光より金の光」「千金は死せず、百金は刑せられず」「金さえあればバカも旦那」「金さえあればとぶ鳥も落ちる」「人間万事金の世の中」
反対のことわざは、「金のうらみの世の中」「金は仇」

○ シシ
 シシというのは、「肉」のとれる獣のことを言う。熊は「シシ」、カモシカは「アオシシ」、猪は「イヌシシ」、鹿は「シシニク」という。
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