民話のこころ ―「牛方と山姥」の発刊の折に ―

(海老名)働くは一番好きでなス、退屈なもんだからやっぱし仕事さ振れていたいと思って今まで…。
(浜田)右足が軽い神経痛を起こしておりまして、ごめんなさい。…武田さんがおまとめになられたお話というのが、こちらのおばぁさんの語られたお話ですか。そうすると当時、お話を、つまりみんな耳から入った、語られたお話を記憶なさっていらしていたお話ですね。私は屋代(山形県東置賜郡高畠町)の方に生まれて、母親からいろいろな昔話を、やはり聞かされて育ったわけでございます。そうですね、おばぁさまとお目にかかりますと、私とそんなにお年令(とし)も違わないような感じがします。私は明治二十六年生まれ、七十八才でございます。
(海老名)私は八十三才です。
(浜田)そうですか、五才のお姉さまということですな。しかしそこに五年の違いがありますけれども、昔の五年の違いというものは、今日の五年の違いと、ずっと近かったわけですから、今は二年といわず大分スピード化していますからね。そんなに多数のお話を記憶なすっていらっしゃるということは、これは非常に珍しいことです。
(海老名)いいえ、とめつめも合わないお話…。
(浜田)私もあんまり記憶のわるくない方だと思っていますが、いくらもそんな話は…(笑)こんな話をすると、みなさんにはもう昔話みたいな感じでしょうが、やっぱりお目にかかりますと私が十才の時は十五才のお姉さまというわけですから…そうですか、これは貴重なことでございます。そういう話はどんどん滅びて行くばかりでございまして、滅びてしまっているわけですから…。
(海老名)「昔の話なくなってしまうから、まず語れ」て、武田先生に言われ申してヨシ、まず親孝行なんて、薄くなったからなシ、この時代は。親孝行の話など、聞いたことあった三つ四つ語っかなぁというような具合で語ったわけだっス。
(浜田)そして聞いた話に、外から混じってくるものがなかったわけですな、むかしは。殊に、そう言っては何ですが、こちらのような山寄りのところでございますから、人間の往来が激しくありませんから、これが例えば越後海岸の港のようなところですと、いろいろな船が各国から来まして、そしてその船頭が持って来た話が混じってしまって、話がこんがらがるケースが、その場合によって、いくらかあったでございましょう。こちらはそういうことはございませんね。ですから、私は何もそう昔の話を広く見渉しているわけでございませんが、青森県の下北・津軽半島、青森の方の昔話には非常に貴重な、こういう話があったかなと思う話がいくつかございますね。これは、私が、実は青森県にまだ足を踏み入れておりませんので、しかとその辺を見届けることができませんけれども、やはり北の最果て、本州から言えば最果ての津軽、そちらの方には純粋なお話が、混じらないお話が残っておりますね。
(海老名)本当に粗末なものですが…。本にして下さるべとは思わないで、こういう風なことあった位のことで語って見たもので…。
(浜田)これは、本の表紙に刷り込まれたのは、家紋ですか、ようく拝見します。私が童話を書くことになったのには、小さい時に母親から、またおばぁさんから聞かされた話というものに面白さを感じはじめたのが出発であったと思います。
(海老名)昔話ざぁ、これぁ何か土台があって、いろいろ昔の事ぁ、年寄りぁ聞かせて下さったもんだべもなス。
(浜田)そのお話が語り伝えられて来たというところには、話の面白さもございますけれども、その話の中にも人間の心が宿っているわけでございますね。その心をも探ってみたいというのが、私の気持ちでございまして、探り当てた心を、そいつをふくらますとか何か、その心を拡げて行きたいというのが、私の希望で、古い話を基にして自分で勝手な書き方をするということを、時に私はいたしますけど、それは昔の話がつまらないから粗末にするんじゃなくて、こういう話がそのままそっくりお話をして下されば残っているわけです。これは貴重な文献です。文学的価値ということとは別でございます。民俗学とか考古学はそれを学問的に見ているわけでしょう。ところが文学となってくると、その話を如何に生かして行ったかという、一つの表現とか、その話に付け加わった作者の気持ちといったものを探るといった方に、国文学者の方の先生方はそういう方面を探るわけですね。そこで考古学とかそういうものとの論争が、いろいろ昔の話の在り方をどう見るべきかといった論争が行われるというわけでしょうね。私はそのまま、そのお話を武田さんが書き取られて、「編」としてあります。これは非常に貴重なお仕事だと思いますね。
(海老名)武田先生は、私のところさ折々お出で下さって、「まだ知ってたかも知んね、まだ考えろ」ていうもんで、私は子供心になってなシ、そして先生と愉快に、「ああ、あれも憶えっだけがな、これも語って見っかな」と、これぐらい語っていたとは自分も思わねうちに、これぐらい語らせて頂いて、武田先生には感心しており申した。
(浜田)ずいぶんありますな。
(海老名)これができてからも、お手紙下さって、「まだもう少しは憶えっだか知んねえから、また聞きに行んから…」なんて(笑)
(浜田)詮索をするようで申し訳ございませんが、つまり何か本をお読みになって記憶していたというのでなく、全部…。
(海老名)私は小さいときにおじんつぁまなどに聞いた話で…。
(浜田)本当に純粋な昔話ですね。そういうような、そのままのものが面白いもので、私も南山の馬鹿の話とか、いろいろナンセンスなものとか、…。西置賜(郡)も東置賜(郡)も、私は東置賜の屋代ですから、話は似たり寄ったりの、話は相当多くあると思います。
(海老名)そうだかと思われるなシ。こんでみな言い伝えになって…。
(浜田)そして小国を越えて、岩船・越後の方から大工さんなんて言うとたくさん置賜に入って来ておりますから、その大工さんが語ってくれた話が、その土地に定着するということもあったと思いますね。ですから越後系の、越後にあるようなお話で、大変似たような話、まぁ全国的に似たような話はあるので、その土地の様子によって話が少し変わっておりますんですね。
(海老名)ほだかも知んねぇな。大変似てたような…。あたしは「むかしむかしって、もう眠れよはぁ」なて言わっだどこ、今思い出されるなス。
(浜田)それだけに、あの話に込められてある語り手の心持ちの実(じつ)というものがやはり伝わったと思いますね。今のテレビじゃありませんからね。形だけの…。人間の心の置きどころが段々と変ったということにもよるでしょうね。まだ私は書いたもので読み取る方が残るものがあると思いますね。ところが、今は仲々テレビでもって見て、目から入るという恰好でございますね。
(海老名)テレビの方も、いいものもあるなス。昔、ロビンソン・クルーソーの昔話ざぁ、本にあったなぁ、あれは面白かったなぁと感ずるげんど、それもあっちこっち拾ってみればと思うような気がするなス。やっぱり読本や歴史なんていうのは、習ったのが少し頭に残っている。
(浜田)そうした話を、仮になさったということさ、今の若い人たちが何か民話というものをわたしも集めてみようかと思ってですね。おばぁさんからお聞きして、何だか大変ロビンソンに似たような話だなと思いながら、それが日本の話だと思い込んでしまうほどに、そういう場合も現れておりますね。どうも今ここに来て、百才以上の人という方もいませんから…。
(海老名)ここで八十先というのは私一人になっどこだっス。
(浜田)そうでしょう。またそういう風にお年を取っておられても、どうも頭の調子が正常でなくなっていれば、そんなお話を語ることはできません。だから人間国宝的なもんですね。そういうもんです。 「米福・糠福」とか、そういうおかしい話ゲラゲラと笑ってしまう話も、いくつか聞いたわけですが、わたしにはこの哀れな話というものが、心に残りました。それがわたしの「善意とは何か」というものになったようですね。まぁ小さい時に聞かされた哀れな思いというものが、何か地下水のように心の底に残っておりまして、それが二十四・五才のときに吹き出したといった形容が出来ると思います。そこから私の童話を書くという出発が始まったようです。子供の、おさない、持って生まれて来たものに感ずる力があるもんですから、やはり引き出してやるということが大変大事なことだと思います。それをふさがないで…。ところが今はいち早くそれをふさいでしまって、物を憶えさせようというような構えが、家庭に多いわけですね。私は四つばかりの孫が東京に…。ある雪の降った朝、起きてみて、「雪が降ったよ」と、こう言われて、こう窓から見て、「雪ダルマ来てないよ」と、こう言ったので、雪が降ったので、雪ダルマが出てくるように思っている。そうした場合、「あなたはおバカさんよ」なんて言わずに、「雪ダルマはこの雪で作るのよ」なんて説明はしないで、「そうだ、来てないね」と相槌を打って、「もう少し待ってたら来るかな」というところでいいんです。何も四才の場合、雪ダルマを雪が降ったから作んなくたって…、と感じたわけです。これがよそのお母さんの場合、とかくそういう風になってしまう仕方が、今日の在り方でないかなんていう話を、お母さん方が、何か話を聞かせてくれというようなときに持ち出すわけです。そういう一つの空想、それを発見、拡げさせて行くという構えがあっていいと思いますね。

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