3 大荒沢不動明王の利勝記

 昔、白夫平に、三十郎という方がおられましたが、生れつき体が弱く、どうにかして、一人前の人間になりたいものと思っておりました。
 昔の若衆の休みは一か月に二回ぐらいなものでした。部落の二か所ぐらいのところに、昔からの「番持(ばんもち)石(いし)」というのがありました。一番大きな石で、二十五貫ぐらい。それを力の強い人は、のしたものです。次は十五貫ぐらいで普通の人がのすことのできるような力(ちから)事でありました。これを若衆は休みの楽しい遊びとしておったそうです。
 三十郎にしてみると、人並みの七分ぐらいしか力がありませんから、それがくやしくて、人のおらない夜、または朝早く番持石にすがり、力を出しておりましたが、一人前にはなれず、これ以上力を出すには、お不動さまにおすがりして、神さまのお力を頂く外はないと、三、七、二十一日の丑の刻参り、無言の行を祈願しました。家を出だすのは、夜の十一時ごろで、お不動さまのお堂に参拝して、奥の滝まで十二時、丑の刻に参拝することができるように行ったそうです。
 一週間目、お不動さまに行き、柏手を打って参拝していると、お堂が傾いてきたので、それを元通りにして、それからお滝参りに行きました。信仰を積むにつれて、家から履いて出た白足袋には土もつかず、道の両側に灯明が並び、万灯のごとくであったということです。神さまの心ためしとでも申しますか、大きな牛なども、道に寝ておったこともあったそうです。
 満願の日の丑の刻の参拝に、お不動さまに、「三十郎」と、一声呼ばれたので、あまりのことに、「はい」と返事をしました。そうすると、お不動さまの持っている剣でひと突きつかれたので、前歯が、みなない人であったという話です。その時の返事をしなかったら、もっと強い力を授かっておったことだろう。それからは倍力の力をいただき、いろいろな話があります。
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 ある旧正月末頃、八谷奥に春山として登る時、昔は米二斗五升を背負って登りました。西氷(にしこおり)に行くと春水のために橋が流れていて、米を背負って川を漕ぐことができません。そのため色々と相談の結果、三十郎に、川向いまで米を投げてもらうしかないということになったそうです。
「よし、それでは自分ながら、投げてみるから」
 といって、投げてみたら、向いの岸までようやく届いた。
「これで大丈夫だから、よせ」
 というのでやったら、投げるたびに一尺行き、二尺行き、三、四十人の物まで投げ、後には山の折(お)根(ね)まで行ったとの話でありました。
 また米沢では三十郎がいるために相撲の横綱が張れなかったということです。
 また、三十郎が友だちと会津若松に行ったとき、相撲がかかってあったので、飛び入りに入ることになり、勝ちをゆずる約束だったが、友達に、
「それ、三十郎、負けるな、負けるな」
 といわれ、神力ができ、横綱をはねとばした。そのために三十郎を殺そうと、夜、宿の周囲をとりかこまれ、女中に逃がしてもらい、八谷峠を夜通しで帰り、その後は相撲をとらなかったということです。
 三十郎は女の子を一人持ち、その子に神力がゆずられ、その人は力持ちで、風呂桶の水の入っているのを、脇にのぞいて下を掃除しているような力持ちであったという。神力が男に継ぐと幾代も続くそうですが、女に続くと、それで終るのだそうです。
(内藤三郎)
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