44 宮澤権右ヱ門

 体も男ぶりも、読むことも書くことも、村一番の頭抜けた人で、祭りには女は五人も七人もつれ立って歩いていたもんで、女衆もお種子頂戴といって寄りついたと。一番の始めの女はお満という者で、盆の十五日の晩にお祭りに、お満の前に別の女に肩引張られて、二人肩掛けなどしていたので、お満は大宝寺の、村の沼で死んでしまったと。
 仏供養のため、前非を悔い、その晩に湯殿山に登って、仙人沢に六千五百日もこもったと。位をもらって、宮沢清雲海と名乗っていたと。貝生に来て、行屋を建てて「七つ前の子は仏でもあり、神でもあり」と言って、何でも聞いてくれたお行様で、手小旗(凧)書きは上手で一晩に三枚・五枚、時には百枚も一晩で書いたこともあったと。八幡太郎義家・義経千本桜・常盤御前・山姥金時など書いたもんだ。彼の妙なことは、鉢巻を両方でおさえさせて、神さまがおさえていると言いながら、真中でぎっちりと、継ぎ目出すようなことしてみせた。そいつを自分の額に当てて、冠にしていたし、頭痛などには、そいつを結んでやっどすぐ直るといわれた。またお上人さまの投げ筆というのは、筆に墨をいっぱいつけて、なげて 〝龍″の字を書いたもんだ。

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