51 工藤六兵衛翁昔話の周辺― あとがきに代えて ―

 初めて工藤六兵衛翁を訪ねたのは、昭和四十年十二月だから、丁度丸三年になる。その後事あるごとに訪れては、昔話ばかりでなく色々なこともお聞きした。今からも、明治の頃の子どもや若衆の生活やら、村のしきたり、民間信仰などお聞きするつもりになっている。しかし今までお聞きした昔話からだけでも、翁はすでに一つの昔話を自分のものとし、工藤六兵衛昔話といった一つのタイプを作り上げた人物といえる。話者であると同時に、昔話を創造する人物とも見ることができる。勿論、昔話を語る翁は忠実に昔話を再現することに十分気を配られ、翁の提供された昔話が民俗研究の貴重な資料として利用されるよう、常に配慮して下さったが、その上に、こんな話を翁は、たわむれに、と言いながら語ってくれた。これは翁を含めた、何人かの人々による、昔話に他ならない。
 白鷹町栃窪にある「稲荷湯」の由来である。


稲荷湯

 鮎貝から、山越え野越えして行って、栃窪というところがある。栃窪の湯の沢というとこある。その頃、栃窪の旦那衆に伊三郎という家があった。その家ではいそがしい時には兄ンにやどら十人も頼んで、また飯炊き・子守りまで合せっど、女子衆も三・四人も頼んでいたったと。
 そんで若衆は毎朝、湯の沢さ朝仕事に行くがったと。そんで早くなど行くじど、よく白い狐が腰のあたり悪いんだか、足のあたり悪いんだか、ピコタラピコタラと、狐が毎朝のように見つかっかったと。ある時、狐の家さ行ってみたら、岩の下で井戸こ掘って足浸しったとこだったと。そこさ若衆二人三人で行ってみたところぁ、岩の下さ水あったと。
「おかしいことだ」
 といたと。そんでも人が行ったもんだから、狐は逃げて行ったと。そして見たら、水は丁度、米といだ時のミゴ汁のような真白い水だったと。そんで匂いかいでみたところぁ、なんだかゆで卵みたいな味すっかったと。舐めてみたら、どこか渋いような、塩っぱいような水だったと。そんで若衆も朝帰りして、旦那に教えたと。旦那は物好きなじんつぁでもあんべし、
「俺は大久保彦左ヱ門ちだ。我儘御免だごで」
 なんて口癖のように語るじんつぁだったと。
「そんじゃ、確かにそいつぁお湯だ。ほんじゃれば、おらえのせい風呂やぶして行ってみて、入ってみんなね」
 なんて、若衆は井(せい)風呂背負って行く、雪がけなど、唐鍬など持って行って、その岩の下など掘って湯立てて、自分が一番早く入ってみたと。そしたところが、すばらしい体の調子は軽くなったと。若衆も代る代る入らせてみたと。そしたばみんな、
「俺は肩痛くていたの、すっかりしたようだ」
 なんて、栃窪中の人を入らせたと。伊三郎はそちこちから薪物集めて来て焚いて、毎日入らせたと。そうしたところぁ、
「俺は胃わるくて食いものうまくなくていだったの、大変腹減って、体の調子はええ」
 なんていう評判になって、それから、こんげな雪掛け小屋では、わかんねと思って家を建てたと。そしてそのじんつぁ、そうしている内に、丁度稼いでいる者の内に夫婦者いだったと。その親父は辰吉と名付ったと。辰吉は正直一方でよく勤めた人で、朝晩のつとめなどはことにええがったと。そんで、そのオカタは何でも賢こくて、他人さ親切で、もごさみなどうんとあるオカタで、丁度お観音さまみたいな女だったと。んだから、その家さ行ったら、
「俺も年寄って、一生お湯立てはしていらんねがらあんだだ立てて、みんなさ入らせてええごで」
 なんて、伊三郎はその人さゆずったんだと。
 その後、足のわるい、腰のわるいじんつぁ来っかったと。そのじんつぁと伊三郎じんつぁは、すっかり友達になって、
「俺はお湯、こうして見付けたんだから、この湯はお稲荷さまに教えらっだから、稲荷湯と名付けた。あんだも物好きだほでに、何か面白い文句出ないか」
 と言わったと。そんとき、足のわるいじんつぁは、
   七つ山八つ谷越えて御山路の
     奥に稲荷の薬湯は湧く
 と唄ったと。じんつぁはうれしくなって、
「また出ないか」と言うので、
   今日もまた恋しくなって稲荷湯
     腰は立てども宿はたたれぬ
 と唄ったと。
「ほんじゃ、長く泊って行くとええな、あとは?」
   だまされたつもりで来たか稲荷湯
     しるしあらわにまたもコンコン
 三つ唄よんだと。辰吉とオカタが湯立てて、うんと流行るようになったと。こいつぁ栃窪の湯のはじまりだごで。どーびんと。

 昔話は必ずしも子どものためのものでないことは、翁のものを見て十分理解できようが、特に翁のそれには若衆の、または大人の昔話が多い。そしてそれらは越後からやって来た者や大工や、お行様、ゴゼ、六部、祭文語りなどの伝えたものも多いことから来るものだと言う。そのためなのだろうが、大人しか聞くことができないもの、子どもに聞かせる訳に行かないものもある。しかし若衆の生活を考えるために、かかすことのできない資料と考えられるので、あえて収録したものである。その若衆の、またはそれ以上の年齢の者たちは、正月の二日とか十六、またはその頃に、よく集まって「百物語」をしたこともあったそうである。年取りの晩に「九・五・一」という年齢構成になると、その家族は不幸があるなどといって誰かが別の家に泊りに行ったりしたというが、そんなことで「百物語」が語られたものなのだろうか。灯心を百本点けて、二・三十人が集まって、一つずつ順に語り、一つ語り終えると灯を一つ消して行ったという。最後には五六本残り、そっちこっちの顔が鬼に見えたり、幽霊に見えたりしたものだったという。そこで語られるものは主に化物話だったようだが、決った話はなく、終りの方になるとつまらない話も多かったのではないかという。また、エロ話などもあったと言うが、具体的に聞いたことはなかったようだ。
 また、百物語が終ってから、墓場に行ってクイを打ちつけて来るなどという、胆だめしもあったという。兵隊に行くちょっと前の年頃から、年寄りは入らないが、壮年の人も入り、がってもない話ではなかったかと思われる。
 第一集から第四集まで、伝説も含めて百八十四話を語り終えた翁は、いささか「昔話の虫干し」にあきれはてたようでもあったが、ともかくいつも温かく迎えて下さって、次々に語って下さったことには何とお礼を申上げようかと、とまどうばかりである。更に奥村幸雄氏は終始同行して下さって、翁と私の間を対話できるように取りはからって下さった。そんな意味でも、この昔話集は翁と奥村氏と私の合作といってよい。ここに深い感謝を捧げる次第である。この小冊子がいささかでも昔話研究に役立てばと祈るばかりである。(昭和四十二年十二月)

武田 正

>>とーびんと 工藤六兵衛翁の昔話(四) 目次へ