5 白髭明神のこと

 露藤村のうちとなっていた中島の鎮守さまは矢張、白髭明神で、祭礼も九月・六月・三月のそれぞれ九日であった。中島衆は中の原から西の原へ出てお詣りに来たものだという。むかしは、祭りといえば、中島部落の人々は露藤に負けないようにと、大きい取飯をとり、露藤の人々は中島の人々に負けないようにと、大きい餅をとった。こうしてとった餅は社前に山をなし、祭礼時というと、別当の金蔵院では餅背負い男を依頼して、いくども背負い運んだという。
 明治の初め頃、露藤の某中島の某に言うには、今度の餅は露藤衆のが大きい、中島衆のが小さいと戯れにいうたところ、中島部落の人々は大いに怒り、西部落の人々の喧嘩となった。それより中島部落の人々は分離して白髭明神に参詣にも来なくなったのだと言い伝えられている。川原の草刈地なども、それ以前は中島と露藤の人々と同所を刈ったそうだが、それ以来分割したという。白髭明神境内で最も大きい木は、鳥居から数歩西の杉の木で、直径八尺ぐらいはあったという。しかし枝は下からかかり、木はごらであったと伝えられている。
(露藤)
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