102 博奕に負けて働く

 露藤村に勘右ヱ門という者がおった。博奕というと三度の飯より好きだといわれたものだった。好きだからまた負けることもなかった。彼は当時金持の勘右ヱ門とも言われていた。たまに負けることがあると朝の二時頃から起きて一生けんめいに藁打ちをして働く。同人の弟に直次という者がおった。青雲の志を抱いて北海道に渡り、蔵問屋で蔵前頭までなったが病気で帰って死去し、明治に入って絶家となったという。
 この五右ヱ門さんは幼名を文太といい、文殊菩薩の日二十五日に生れたので、文太と命名したという。文久の百姓騒動には露藤村を代表して努力した。命日は元治元年四月八日、品川の牢で毒殺されたといい、同人妻は三十二才から夫に別れ、後家で通した。遺言で文太の髪は妻へ届けられ、同家の墓地の万年塔におさめられたという。仏名は智源円心居士という。
(露藤)
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