18 宝岳寺縁起

 往昔のこと、屋代郷露藤村に一軒の農家があった。親子三人の水呑百姓であった。水呑百姓のこととて、妻は造り花などこしらえていくらでも家の暮しを助けていた。そして貧しいながらも二人の間の男の子一人あって、一生懸命働いていて楽しく暮しておった。こうして春の忙しい節から夏の暑い節もすぎ、秋になった。あたりの山には早くも白いものが来た。冬篭りに忙しい。丁度一日の疲れをいやしながら、三人で炉をかこんで夕飯に着いていた時、つい聞いたことのない人の訪れ、どこの方やらと門へ出て見ると、一人の旅人、お坊さんが立っておったという。
 そして言うには、もう夜になったので、どこへ泊ることも出来ず困ってしまった。仏のお慈悲にどうぞ泊めていただきたいと願った。親子は、それはさぞお困りのことでしょうと、見らるるとおり粗末な家だが、それでよかったらお泊り下さいと言ったら、旅の坊さんは喜ぶことは限りなく、足を洗って炉辺へ上がった。女房は甲斐甲斐しく、夕飯の仕度にかかり、田舎のこととて珍味もなく、苦心つくしての御馳走に喜び、いくどもいくども礼を繰返した。
 そして夕飯を終えると、彼の坊さん親子三人と炉をかこんで、戸塚山の話を語った。旅から旅へ廻る坊さんは面白い話もたくさんあった。語る話は珍らしいことばかり、また衆生を済度する仏弟子の有難さを語った。珍らしいことと思って黙って聞いておった息子、親へ向っていうには「己も大きくなったら、お坊さんのようになりたい」と切に言うのであった。わが子の切なる願いを聞いて、かなえてやりたいのは親心でもあった。仏弟子になりたいとは何よりの誉であった当時のこと、主人も女房も口をそろえてお坊さまに、こうして炉を囲んで話すのは何かの縁、この子の望通り仏弟子にしていただけまいかと、旅の僧へ願うのであった。夜は次第に更けて行く。話はとぎれて一家はしんとした。しばらく物思いにふけっていた坊さん、静かに語り出すよう、このお子さんが仏弟子になりたいというのは、前の世の因縁ごとでもあろう。しかしお子さんにしてもどう、あなた方は考えられますかと聞いた。それで主人が言うには、坊さん、この子は仏弟子になりたいというのは、今夜突然語ったのではない、口ぐせのように常々言っているのだ。それでそうお願いできるなら幸福です。と答えたところ、かの坊さんも、そんなに一家そろって願うなら、かなえて進ぜましょう。自分は羽州嶺松龍洞山というお寺の住職で、なかなか遠い。お子さんはまだ年も若いので連れて行く訳には行くまい、大きくなったら必ずおいでなさい、では親御さん立会いで仏弟子にして差し上げようと、坊さん剃刀をとって髪を剃ってやった。家内の喜びいかばかり、夜も更けたので、坊さんはその晩は泊って、次の朝は思わず寝すごしてしまった。親子のもの、この珍客を心からもてなした。そして親子に送られて、心を後に残して去ったのは、朝露もすでに乾いた頃であった。こうしたことのあったのは文安丁卯の年で、子どもはまだ十才だったという。

 それから七年、仏弟子を志した彼は百姓をするかたわら、ほど近いお寺へ行って、和尚さまへ願ってお経を習った。習うより慣れろの諺の通り一心になって、勉強した甲斐があって一通りのお経を読むようになった。和尚さまも覚えがよいとほめられることは度々あった。そして十七才の春になり、瑞雲院を尋ねて行った。その頃、瑞雲院の住職閭翁和尚という方はなくなって、その弟子の良正という方が住職となっておられたので、七年以前のこと、今迄のことなども話をして弟子にしていただきたいとねがったところ、良正和尚は心から迎えてくれたので一生懸命になって仏法を修業した。それから良正和尚の言うには、自分の兄弟子に良波という博学の方がいる。その方に教えをうけたがよかろうと教えられ、さらに良波和尚について禅の奥義を究め悟りの道を開いたのであった。そして天明十三年丑年の春のこと、布教をしようと瑞雲院に信者を集めたところ、老若男女が、われもわれもと集まってお堂はいっぱいになった。こうした人々を前にして仏の教を説いたところ、人々生仏様と感じないものはなかった。延徳二年の秋のこと、旅仕度をしてはるばる遠い奥州の仙台に行って善男善女を集めては衆生を済度した。そして思うよう、自分がこう仏弟子になり得たのも、元はといえば、閭翁禅師お師匠さまのおかげで、師のためにお寺を建立しようと発願した。そう考えると矢も楯もたまらず、雨の日も風の日も雪の日も寒行をした幾年の後にはその熱心に動かされて信者も出来、いよいよお寺建立の願いもかなった。そこでこの地をえらび、地ならしをし、高い処を掘ったら、カチリと鍬に当ったものがあった。不思議に思って掘ったら、ツボがあって、開いてみたら中に金色さんぜんとした黄金に大いに喜んだ。早速堂を建てた。そして金秀山瑞雲寺とよんだ。それから明応五丙辰の年、またもや金勝寺を建てた。
 明応九年の春のこと、露藤村に宝覚寺を建立した。そして天正九年になって「覚」というのは悪いというので、岳の字に改めて宝岳寺と呼んだ。それから文亀二年に金山村に洞善院を建立した。こうしていよいよ名僧の名が聞えたのであった。永正元年の春になって宝岳寺に帰っておられたが、その年の五月九日のこと病気もなく突然遷化された。弟子は相謀って師の体を火葬して、その骨を拾って金勝寺・瑞雲寺・洞善寺・宝岳寺の四カ寺へ分けて霊塔を建てた。お年は六十四才、仏前に入ってから五十八年となったのであった。弟子は四人あったという。
 棟庵、泉梁乾室林浦天海竜梵瀾室の貞波。棟庵和尚は瑞雲寺の住職となる。乾室和尚は瑞岩寺、天海和尚は金勝寺の住職、瀾室和尚は洞善院の住職、東海和尚は宝岳寺の住職となったという。
(露藤)
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