66 喜兵衛さん怪しいものを見る

 喜兵衛さんは露藤の人である。五十年ばかり前のこと、その年は珍らしく旱天で、連日連夜に亘って田へ水引をした。喜兵衛さんも毎日水引をしていた。ある夜のこと平蔵江から堰にそってただ一人、分水口の方へと歩いた。今しも城官橋へと差かかった。当時この辺一帯は色部野と称して杉の木が茂り、昼なお暗くものすごいところであった。喜兵衛さん、今しもこの橋の上へとさしかかると、一間ばかり前方の暗いところに、高さ三尺ほどの怪物が顕われた。往来剛気であった喜兵衛さん、片手に鎌を持ち、この怪物に近づけば、怪物は彼方へ走った。そして堰に入った。堰の水は二尺ぐらいしかなかった。その濠の中ほどに中州があった。怪物は中洲に上った。おのれ畜生奴といいながら、喜兵衛さん、ざんぶとばかり入って中洲へ上り、怪物をとらえんとしたら、不思議に今まで目前にいた怪物はかき消すように見えなくなり、急にさびしくなって、小佐家の自宅に帰った。帰りにまた萱野を通らなければならぬので下浅川の部落へと一走りに走って行ったという。当時下浅川の部落というのは、天王川を左に見て三軒ほどの農家があったところである。
(露藤)
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