26 烏ぼたもち ― 二月八日は「事始め」十二月八日「年越し」の烏ぼたもち ―

 まいど、あんまり金持ちでもないげんども、一人息子持った親父いたったと。
「俺も息子は一人ばっかりだべし、ええどさ縁付けったいもんだ」
 どて、その親父は神さまさ願掛けていたったと。その親父が町さ用達しに行く途中に、烏の子七匹まだ毛も生えない赤ピッピ、巣がらみとって来て、餓鬼べらうんとせめて、今にも死にそうになってたと。そうすっど、その親父は何の気もなく、
「こりゃこりゃ、ニシャだ、俺ぁ銭呉(け)っから烏売んねが」
 と言うたと。
「あんまりええどこでない。俺だ向いの山から取って来たんだもの、また取って来られるし、売るごで…」
 そして餓鬼べら言う通りに親父は買って来たと。親父は巣がらみ持って来て家さおいて、御飯を食せたりして飛ぶようになったもんだから、親烏のいる向いの山さ放して来たと。そして何年も経ってから村一番の旦那衆、田も千刈・畑も二千刈持っている、山という山はみなその家のものだという旦那衆いたったと。そんでその旦那衆は、
「おらえの田畑など決まっているもんだげんども、山の木の数だけは分んない。俺は元から植えたり手入りしたりしたんだから、大体分っけんども、聟などとってみたって、こいつを皆分るような者はめったに居んまい。おら家の娘もこの家さ生まった娘じだ。こいつ数えるくらいな聟欲しいもんだ」
 そんで、山の木数えられる者いたら、おらえの聟にするというお触れをしたと。そうすっど、
「あの旦那衆さだれば、おらえの息子、なじょかして呉れっだい。息子さそんなこと言うても息子は若いもんだし、木数えなどは目移りして、簡単に数えられるもんではない、ほんで俺は年の功だから、行って大体数えて来て息子さ教えてやった方がええ」
 と、親父は出かけて行ったと。そんで南山の両沢合せては杉林だ。こっちの向い下は松林だし、丁度裏山は栗木林だし、
「はてな、栗の木はたんとない(多くない)し、松もたんとないし、杉の木だ、まず」
 と、杉林さ行ってみたと。そして行ったところ烏がいる。そしてまだ憶えあるもんだから、
「じんつぁ、じんつぁ、なにしに此処にござったんだ」
「いや、いや、そう言わっでみっど、お前どさだから、正直なこと申し上げっど、あそこの村一番の旦那衆はおらえの木皆数える息子だれば聟にもらいたい。とこう言うているもんだから、息子ではとても数えられんまいから、俺ぁ大体のとこ数えに来たんだ。中々こりゃ大きく大変なもんだ」
 と言うたと。そしたれば、烏は、
「いやいや、殺されっどこ生命助けてもらったおらだだ。丁度おらえの子どもは七人いる。俺とカカと合せて九人だ。ほんじゃれば俺とカカと子どもと手分けして、数えてくっから、じんつぁここに待ってで呉(け)ろ」
 と、じんつぁどさ御馳走出して火焚いて待ってらせたと。そんで親二羽と子どもは一番いっぱいある杉林さ行った。それからその次には子ども衆は松林・栗林に手分けして行ったと。ほんで烏なもんだから、そっちゃ飛びこっちゃ飛びして、たちまちの内に数えて来たと。そんで親烏は、
「あそこの平の杉林は、じんつぁじんつぁ、丁度七万七千七百七十七本あっけ」
「ははぁ」
「にしゃだ行って来た松林はなんぼあっけ」
「松は五万五千五百五十五本だっけ」
「栗の木林には丁度三万三千三百三十三本あっけ、そして都合あわせてみっど、十六万と六千六百六十五本ある」
 と言うたと。
「分かっか、じんつぁ」
「ほだなぁ、わかんね」
「ほんじゃ」
 と、烏に書いてもらって、そしてホクホクと帰って来て、息子さ、
「にしゃどこ、村一番の旦那衆さ呉(け)っだいとて、親父はこうして行って来た。こういう訳で烏から数えてもらって来たんだ。決して忘れんなよ」
 と、息子さ教えたと。そして息子はそいつを空憶えして行って旦那さまどさ行って語ったと。
「よく、お前は数えたもんだな。杉林・松林・栗の木林まで、よくお前は数えた」
 なんて、うんと褒めらっで、
「ほんじゃれば、おらえの娘さあんだどこ貰う、来てけろ」
 息子も喜んで、御祝儀したと。その御祝儀の日は二月八日であったと。そうすっど、親父も、
「烏も命の恩返しだと言うと、数えてもらって来たげんども、こがえな暮しから、あの旦那衆の聟になられるなんて言うこと、俺は烏さ恩返しさんなね。ほんで今日は、あんまり大きくては烏は食いづらいんだから、ボタモチでもついて、小さくして上げろ」
 なんて、ボタモチ搗いて、小っちゃく握って、屋根の上さ、
「烏、烏、小豆餅くたがらば、御器と箸もって来い、ホーラ」
 なんて、家内中であげてやったったと。そしてそれから毎年恩返しに二月八日にする。十二月八日には年越しのカラスボタモチをした。これはカラスボタモチの始まりだったと。どーびんと。

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